忘却の彼方 −スレッドカラーズ短編−

Written by 二級抹茶.
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 不思議な光景。
 相手を見据えて、私が立っている。その向かいにいるのも、私。
 鏡に映ったみたいに、そっくりな私がいた。
「尚登の、おばさん?」
 よみがえる記憶とともに、声を振り絞る。
「おばさんだなんて、失礼ね。私は求塚由真」
「違う! 私はここにいるわ」
 思わず大きな声を出していた。自分の存在を否定されたように感じたからだろうか。
「うふふ。あなたは偽物で、本物の私が私なの。さようなら」
「いや!」
「聞き分けの悪い子は、あの子も嫌いだって」
「そんな、そんな……」
 絶望に落ち込んでいく。私は――

「……ねえ」
 声が聞こえる。
「起きて。求塚さん、求塚さん」
 私は、揺り起こされていた。まどろみから覚醒する意識に合わせるように目を見開くと、九曜先生の姿が見えた。
「こんなところで寝てたら風邪ひくわよ。大丈夫?」
「すみません。大丈夫だと思います」
 九曜先生に軽く頷いて返事しつつ、さっきまでの記憶を振り返る。
 夢。嫌な余韻しか残らない夢だった。
 大学入試の合格を確認した帰り道、立ち寄った病院。その屋上のベンチで、まだ肌寒いのに眠ってしまったらしい。
 なぜ私は、ここに来たのだろうか。感傷のため? それとも……
「ちょっと休んでいったら」
 なおも心配する九曜先生に手を振り、私は歩く。
 ここにはいない、尚登。
 どこにもいない、尚登。
 好きだったか、と聞かれても即答できない幼なじみ。
 「好き」と即答できるくらいだったら、哀しみが私の心を満たしてくれたかもしれない。
 そんなのは幻想かもしれないが。

 わからない。
 この一言に気持ちが集約されるのかもしれない。階段を降りるさなか、私は考えを巡らせ続けていた。
 それがいけなかったのだろうか。踊り場から踏み出そうとする右足が、着地点を失う。バランスが崩れる感覚。
 落ちる。
 昨日までの、受験生にとっては禁句の言葉。私は、ひどく冷静に考えている自分自身に苦笑しつつ、次の瞬間に予測される衝撃にそなえた。
 ……痛くない。
「大丈夫?」
 二回目の言葉。
 私の身体は、女性の腕に支えられていた。視線の先には真っすぐに私を見つめる整った顔立ち。素直に、綺麗と感じた。きめ細かい肌は、黒を基調とした服装と同じ色合い。どことなく神秘的な雰囲気も漂っている。
「はい。ありがとうございます」
 視線にどぎまぎしつつ、お礼を告げる。
「求塚由真、あなたには一声かけたかった」
「え? なぜ私の名前を――」
 疑問は、さらなる衝撃によって打ち消された。
「彼、当麻尚登はずっと危うかったから」

「少し歩きましょう」
 そう言って歩きだした彼女の斜め後ろをついていく。うずまく疑問に回答を見いだせないまま、病院の通路に足音が響く。
 彼女の歩みが、自動販売機の前で止まった。ジュースを見つめている。
「あ、おごります。どれがいいですか?」
 年上でも、助けてくれた相手に対して失礼ではない気がした。また、この沈黙を破るきっかけがほしいと思った。
「……ぷちぷちジュース」
 しなやかな指先は、微炭酸の缶ジュースを指し示していた。
「あ、わかりました」
 顔を赤らめて言う、その様子をほほえましく思いつつ、小銭入れを開けてコインを投入する。
 ごとん。
 取り出し口に落ちたジュースを彼女に手渡し、私は隣に並ぶ販売機でブリックパックのりんごジュースを買った。
「おいしい……」
 率直な感想を述べる彼女を好ましく思った。でも、さっきのことは問いただす必要がある。
 お互い飲み終わる頃合いを待ってから、思い切って質問を投げかけた。
「尚登や私のこと、知ってたんですか?」
「ええ、ここから見守っていた。当麻尚登が違う世界に取り込まれる、その瞬間まで」
「違う世界?」
「あなたもかいま見たはず。母親に連れられて行くところを」
 彼女の話は、素直に受け入れることができた。過去の記憶がよみがえる。信じられない光景だったが、尚登はもういない。それが現実だった。
 母親に負けた女。
 そんなふうにさげすむことは、とても簡単なことだけれど、大切な何かが間違っている気がした。
「彼らの行った先は『死ぬ』という概念の存在しない世界。私にも見ることができない、永遠」
 彼女が紡ぐ言葉からは、幻想に彩られた世界が連想された。でも、私の疑問は、ただ一つだけ。
「尚登たちは、幸せなの?」
「わからない。でも、あなたは生き抜くことができる」
 一拍おいて、彼女のつややかな唇が動く。
「死の概念を背負う、あなたたちだけにできること」
 それが、記憶する限りの最後の言葉だった。

「……起きてよ」
 遠くから声が響く。
「求塚さん、起きてってば」
 まぶたに映るのは看護師さんの制服。桂城さんだった。
「こんなところで、もう。大丈夫?」
 私は首を縦に振って肯定した。心配されるのも、これで三回目だ。いや、本当に三回目なのだろうか。
「病院の毛布、誰か患者さんのかしらね。親切なんだか」
「毛布……あれ?」
 毛布をかけられて、私は通路の椅子に寝転んでいたようだ。飲みほしたはずの空のブリックパックも、彼女のジュースの空き缶も見当たらない。
 夢だったのだろうか。
 でも、彼女の話していたことは、その一言一句が脳裏に焼き付いていた。決意とともに、私は起き上がる。
 この世界を生き抜く。いつかは哀しみも、この胸の痛みも振り切りたい。
 それが、私にとっての、さよならの向こう側。

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