「一ノ瀬さん」
窓口の女性から呼ばれる声に、思わず緊張する。
「出生届、問題ありませんでした。こちらが母子手帳です。おつかれさまでした」
「よろしくお願いします」
私は軽く頭を下げ、出口へと歩き出す。
これからが、始まり。
真冬の肌寒い空気を感じながら、私は待ち合わせ場所へ向かった。駅前のコーヒーショップには、二人で椅子にかける姉さんの姿が見えた。視線で合図を送ってから、カウンターで注文を取る。
「一ノ瀬さん」
その声に私は思わず振り向いたが、姉さんに中年の女性が話しかけていた。勘違いしたふりをしてカウンターに向き直り、こっそり様子を見守る。
「もう退院されたんですね」
「ええ、おかげさまで。そちらは?」
ほほえみ返す姉さん。
「うちの息子は、もうちょっとかかりそう。今日も様子を見てきたけど、こればかりはお医者さんに任せるしかないわね」
「そうですね。お大事になさってください」
「それでは、また」
女性の姿が見えなくなってから、姉さんの向かいの席に腰掛けた。
「びっくりしなかった?」
「大丈夫。知っている声だったし、入院していて慣れたから」
この時間は空いていると思って場所を決めたのは私だ。いくら人通りが少なくても、二月の公園のような場所を待ち合わせ場所にはできない。
それに、事情もある。
「あなたこそ、出生届どうだった?」
「事前に判も押していたし、問題なかったわ。なにせ本人ですからね」
まるで他人のことを話しているかのように実感がないまま、改めて疑問を口にすることを決意する。一番の問題であり、かつ最後の最後と思われる質問。
「姉さん。本当に……いいの?」
「ええ、むしろ心配なのは、あなたの方」
バッグから封筒を取り出し、それを私に手渡しながら姉さんは言った。
「母子手帳と、証明書よ。これで私は当麻美津子に戻る、それだけのこと」
「でも……」
「あなたは初めての育児でしょ。私は母乳の処置に困るくらい」
もう後戻りできないことは、わかっている。蒸し返そうとする私が不可能を口にしていることも、決して私には見せようとしない姉さんの深い苦しみも。
そんな私をなだめるように、姉さんは抱きかかえていた赤ちゃんを大事に私の両腕へと手渡した。
「これで帰るわ。あの人も、尚登が寂しがってると言ってたし」
明るい笑顔に、胸が締めつけられた。
「また連絡するから。がんばるのよ」
はげます言葉と引き換えに、腕の中には女の子の赤ちゃんが残される。
「ありがとう」
私のお礼は空虚に響いた気がした。
この子を育てられるか、という問題だけではない。
一度は決心したにもかかわらず、どうにもならない不安が渦巻いていた。
無限の十字架を背負う、私たちの結末は――「お兄ちゃん」
美桜が僕に話しかけてきた。
「どうしたの、美桜?」
「お母さんは、現在の私たちをどう思ってるのかな?」
「いきなりな話題だね」
ソファーで隣り合う妹の唐突な話題に、僕は戸惑った。
「私たちの、お母さん」
真剣な表情で見つめる美桜。しばらく考えてから、答えた。
「幸せになってほしいと思ってるよ、きっと」
格好つけて、肩を抱こうとした。ところが、美桜は首を振る。
「そんな、恋人みたいなこと」
「部屋の中でも、恋人じゃだめってこと?」
ちょっと落ち込む。
「あ、そういうわけじゃないの。恋人だけじゃなくて」
僕の様子を見て取った美桜は、あわてて手を振りながら。
「お兄ちゃんだから」
そう言って、背中をすりつけるように僕へ飛び込み、ほほを寄せてきた。
ぬくもりとともに、幸せに包まれた表情が覗けた。