千の夜と一つの朝 −Ever17短編−

Written by 二級抹茶.
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 空が、長い欠伸をした。
 一足先に欠伸をしていたぼくは、口に手をあてながら周りを眺めた。見渡すと、みんな眠そうな顔をしている……というか、全員が連鎖反応したみたいに欠伸をしていた。LeMUの状況に特に大きな変化がないこともあって、会議室にはだらけた空気が漂っていた。
「それにしても……なぁーんか、みんな眠そうだねぇ」
 そう言うココも、ぼんやりした表情に見えた。でも、次の瞬間には飛び跳ねるように起きあがり、はじける笑顔を浮かべていた。
「ほいじゃあ、ココが一つお話をしてあげよう!」
「またコメッチョか?」
 真っ先に反応したのは武だった。ココのコメッチョ。ぼくも聞いた気がするが……どんな話だったか思い出せない。メモにも残っていない。
「違うよ。今度は不思議な話」
 そう反論するココに、優と空が加勢する。
「なんだっていいじゃない、倉成。この退屈を紛らわしてくれるなら」
「そうですよ。私もココちゃんの話、聞いてみたいです」
 了解と頷く武の姿を見てから、ココは話し始めた。
「じゃあ、始めるね。えっと、むかーしむかし、アキレスという名前の勇者と一匹のカメさんがいました。いつも二人はいがみあっていたのです。カメさんは言いました。おう、アキレスや。今日こそはけりをつけてやるぜ。アキレスも負けてはいません。ふん、返り討ちにしてみせよう」
 いつも思うことだけど、ココの話す様子はすごく楽しそうだ。
「すったもんだの末に、競争で勝負することになりました。余裕のアキレスは十秒のハンデをあげました。カメさんは先にスタートして、アキレスが追いかけていく勝負が始まったのです」
「ちょっと待った。カメって、動物の亀のことだよな?」
 武が割り込んだ。
「うん、そうだよ」
「実はガメラだった、なんてオチはなしだぜ」
「ないってば」
「十秒じゃ、すぐ追い付いちゃうんじゃない?」
 ぼくも思ったことを指摘した。
「アキレスさんも大人げないですよね」
 これは空。
「もう、ここからがいいところなんだから。カメさんがスタートして十秒後に、アキレスが走り始めました。そのときカメさんは、アキレスより先のAという場所にいます」
 そこで一度言葉を切って、みんなを見回す。
「それから、アキレスはAの場所にたどり着きました。ところが、カメさんは動き続けているため今度はBという場所にいるわけです。このBはアキレスよりも前でしょ、少ちゃん」
「うん。Aよりは前の場所だね」
「今度は、Bの場所までアキレスが到着しました。でも、またカメさんは先のCまで進んでいます。アキレスがCまで進んだらカメさんはDに、Dまで進んだらEに、Eまで進んだらFに。こうしてアキレスは永遠にカメさんに追いつけない、というわけです。これは一体どうしたことかっ」
「あれ? どういうことだろう」
 優がつぶやいた。ぼくもどこか違和感を感じたが、どうおかしいかまではわからなかった。
「不思議ですねえ」
 にこにこ顔のココ。
「でもさ、Zで終わりにならないか。その後はどうなる?」
 武の言葉に、すかさず優がツッコミを入れる。
「バカね、倉成。ココがアルファベットを使ったのは例えじゃない。たしかにアルファベットは二十六種類だけよ。でも例えば、あ、い、う、とひらがなを使えば……って何種類あるっけ、空?」
「小さい文字や濁音、半濁音も含めたら八十三種類です」
 空が即座に返答する。
「Zの次は、ひらがなにしたっていいでしょ。それでも『ん』の続きがあるっていうなら、数字で羊が一匹、二匹とでも数えれば倉成が眠ってしまった後も無限に続いていくわよ」
「なんだよ。ちょっと言ってみただけじゃないか」
 少し仏頂面になる武。
「それにしても、たしかに不思議だよね。どうしてだろう……」
「ちょっと、少年! あまり考え込んじゃダメだからね」
 心配した優が、ぼくの側にかけよってきた。でも、もやもやした考えが浮かぶばかりで、深く考え込むための手掛かりすら見つかりそうになかった。みんな考え込んでいるのか、会議室は静寂に包まれた。
 そして、しばらく間を置いてから。
「ゼノンのパラドックス」
 いきなり響いた声は、寝ていたかと思ったつぐみのものだった。
「ギリシャの哲学者、ゼノンが逆説として提起したものよ。飛矢など、全部で四つあるうちの一つで『アキレスと亀』と呼ばれている」
「ココちゃんの話はアレンジが入っていますけど、大筋は同じですね」
「なんだ。やはり空も知っていたのね」
 つぐみが軽く肩をすくめた。
「そもそもアキレスって、ギリシャ神話の英雄だもんね。有名な逸話があるじゃない」
 そこに優が割り込み、流れるように話し始めた。
「アキレスのお母さんは、息子が不死になるよう冥府の河の水に浸したの。生まれたばかりのときに、両足を握ってね。ところが、その握った部分だけは水に浸からず、最強と思われたアキレスは足首を矢で射抜かれて死んでしまう。これが弱点に例えられるアキレス腱の由来」
「いかにも神話らしい話だな」
 武が答える。
「倉成のコメントなんか求めてない。ありがちで悪かったわね」
「それより。アキレス腱って、なんだっけ?」
 ぼくは思わず口にしていた。どこか記憶の引き出しに入っていても、取り出せそうにない感覚。とてももどかしく思えた。
「少年、アキレス腱も忘れちゃったの? 足首のここんとこ、よっと……」
 そう言いながら、優は自分の右足を持ち上げて僕に見せようとした。直角に曲げたひざを抱えて片足立ちした状態のため、ちょっとふらついている。
「あっ……」
 ぼくが声をあげた瞬間、いつの間にか優の背後に回り込んでいた武が、バランスを取っている片ひざの裏を自分のひざでつついた。いわゆる「ひざかっくん」だ。すってんころりん、と派手に転ぶ優。武は巻き込まれないよう素早く身をかわしていた。会議室に舞ったスカートの深奥には白い世界が垣間見えた……気がした。
「倉成っ! もう許さないからね」
「あははっ」
 二人はそのまま鬼ごっこさながら会議室の外に出ていった。叫びながら走り回っている二人の声は、会議室に残されたぼくたちにもよく聞こえた。
「もうーっ。みんなココの話を考えてよ」
 ココがほっぺたをふくらませた。
「武って……本当に低能ね」
 つぐみの視線は、武がいた場所に突き刺さっていた。一瞬だけ険しい顔をしていたが、すぐいつもの表情に戻る。
「ところでココ。アキレスと亀の話だけど、どうしてそうなるか知ってる?」
「わかんない」
 即答するココ。
「じゃあ、説明してあげる。広場まで行きましょう」
 つぐみはなぜかココには優しかった。ココが先に握ったのか手をつないで歩いていく二人の後ろを、ぼくと空もついていく。その行き先は中央広場の一角だった。
 そこには時計がかけられていた。しかも数字で時間を表示するタイプではなく長針と短針、そして秒針があるアナログ時計。このLeMUでは、あまり見かけることがなかった。
 一度ぼくたちを見回してから、つぐみが話し始めた。
「さて。カメが十秒で進む距離は、アキレスには十秒もかからない。理由は当然アキレスの方が足が速いから。いいわね?」
「うん」
 興味深げにココが頷く。
「さっきの話を思い出してほしいの。カメが進んだAにアキレスが来るまで、時間は十秒も必要ない。せいぜい数秒、あの時計の秒針が正午のときに始まったとすると、二時よりは手前」
 つぐみが時計を指差した。
「そのとき、カメは次のBという場所にいる。AからBに進むまで、カメには数秒しかなかったわけ。その距離をアキレスが走るには、さっきよりもっと少ない時間しか必要としない」
 ぼんやりとだけど、ぼくにもつぐみの言いたいことがわかってきた。
「同じようにBからCまでアキレスが進むには、もっともっと時間は少なくていい。たしかに一見、ずっと無限に続いていくようだけど、かかる時間には限りがあるわけ。時計の秒針が動く幅はA、B、C、とカメが進むにつれて急速に小さくなり、決して何周もしないの。これでわかった、ココ?」
「うーん、なんとなく」
「言い方を変えれば、アキレスとカメは限られた時間の中で競争してるから追いつけない。彼らにとって競争は永遠に続くけど、時計の動き方を見ると限界があって絶対そこまでは到達しないわけ」
 永遠に続く競争。それは幸せか不幸なことか、ぼくは考えを巡らせた。
「でも、ここにいるみんなも同じだったらいいのにね」
 ココの思わぬ言葉に、空も頷く素振りを見せた。
「たしかに面白いですね。そうでしたら、ずっとみんなとお話できますし」
「そんなことが……あってもいいのかもね」
 言葉の途中から、楽しそうな顔になったつぐみが続ける。
「実はLeMUにいる全員の時間軸は有限で、決して圧潰することはない。その先を知っている、違う視点の誰かが救い出してくれるまで、私たちは永遠にここで過ごすことができる、なんてね」
「違う視点の、誰か……」
 無意識につぶやいていた。
「会ってみたいね、少ちゃん」
 目を輝かせるココに、ぼくは胸騒ぎを覚えた――なぜか。

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