コンクリート・ジャングル −Ever17短編−

Written by 二級抹茶.
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「卵が先か、ニワトリが先かっ!」
 そう叫びながら、沙羅が制御室に飛び込んできた。
「一体どうしたの、沙羅?」
「松永さん、何があったんですか?」
 ぼくと雑談していた空も、入口の方を振り返った。
「どうもこうもないわよ。これは由々しき問題よっ」
 有無を言わせぬ口調で、沙羅はサインペンを取り出した。優が持っていたものと同じだから、たぶん借りてきたんだろう。
「何か書けるものある?」
「では、こうしましょう」
 空が手をかざすと、ただの壁だった一角にホワイトボードのホログラムが現れた。沙羅は、サインペンのキャップをつけたままホワイトボードに近寄っていく。
「ニワトリは卵を産む。卵はヒヨコにかえり、やがてニワトリに育つ。そしてまたニワトリが卵を産む」
 ぶつぶつつぶやく沙羅の言葉とともに「ニワトリ→卵→」と繰り返し書き込まれていった。ひとしきり書き終えた後、ぼくらを見回しながら沙羅が質問してきた。
「さて、卵とニワトリ、どっちが先なんでしょう?」
「さあ」
 条件反射で答えるぼく。
「さあ、じゃなくてさ。空はどう思う?」
「たしかに気になりますね。考えてみましょう」
「そうこなくっちゃ」
 にっこりと笑う沙羅。その表情を見て、ぼくも暇つぶしにはいいかもしれないと思い始めた。
「まず、ニワトリや卵の前が何だったか。そこから始まります」
「前?」
「はい。ニワトリは最初から『ニワトリ』なる動物ではなかったはずですから、どこかで初めてニワトリになったわけです。その一世代前はニワトリではない動物、ということになります」
「ニワトリじゃない動物から進化したってこと?」
 沙羅が口をはさむ。
「その通りです。ダーウィンの進化論ですね。少年さんも習っているかもしれません」
 確認するように、ぼくに向かって話す空。記憶を取り戻せていないぼくには習ったという実感はなかったが、空が言っていることは十分理解できた。
「ニワトリではない動物が卵を産み、その卵がニワトリに成長したときを考えます。そのとき、ニワトリより先に卵が存在したわけですから、卵が先と言えるのではないでしょうか」
 ぼくはうなずきながら、空の言葉を聞いていた。でも、沙羅は気難しげに考え込んでいた。
「ちょっと待って、空。でもさ『ニワトリじゃない動物の卵』は本当に『ニワトリの卵』なのかな?」
「と、いいますと?」
 沙羅の質問に、空は小首をかしげた。
「例えば、ニワトリじゃない動物がトンビだったとするね。あるトンビが卵を産んだとして、その卵がニワトリに育つまで『ニワトリの卵』とはわからないじゃない。またトンビになるかもしれないわけだし」
 トンビが産むのは鷹だと思ったが、ぼくは黙っていることにした。
「つまり、ニワトリが存在して初めて『ニワトリの卵』と認定されるんだから、ニワトリが先と言えるんじゃないの?」
「たしかに松永さんのお話も一理ありますね」
 空が相槌を打ちながら返事する。
「えーと、沙羅が言っているのは卵がかえるまでトンビかニワトリか確定しないってこと? 卵の状態では予想ができなくて……」
「シュレディンガーの猫」
 途中まで言ったところで別の声にさえぎられた。声が聞こえた方を見ると、いつから話を聞いていたのか、つぐみが制御室の入口近くにいた。
「実験のことよ。箱の中にいる猫が確率50%で生きているとき、その結果は箱の外から見えないから『生きている』と『死んでいる』が同居した状態になる。そして、箱を開けた瞬間どちらかに収束する。そんなふうに見ると、卵が『ニワトリの卵』か『トンビの卵』かは、少なくとも雛鳥になって殻を破るまでは不確定」
 つぐみの話は、何やら難しく感じられた。
「やっぱりニワトリが先でいいんじゃない?」
「小町さんがおっしゃったのは量子論的世界観と呼ばれる考え方ですが、この場合には私も理にかなっていると思います」
 沙羅と空が、納得したような表情を見せる。
「実際には猫も卵も観測できるけどね。このLeMUに閉じ込められた私達が外部からは生死不明に見えるにもかかわらず、内部にいる私達自身は今の状況を理解できているでしょ。それに」
 つぐみはそこでいったん言葉を切った。なにかに少しいらついた表情が見て取れた。
「そもそも『先』の定義がないのよ。あなたたちの、さっきまでの話は」
「定義って?」
 ぼくは思わず聞き返していた。
「あらかじめ言葉の意味を決めておくってことよ、少年」
 返事したのはつぐみではなく優だった。話し声を聞きつけたのだろうか。
「そうしないと何でもありになっちゃうでしょ。例えば、国語辞典の順番だったら『た』行の卵が先、ドイツ語も『Ei』の卵の方が『Huhn』のニワトリより先、英語だったら『Chicken』のニワトリが『Egg』より先」
「それは反則だよ、優」
「そういうこと」
 優がうなずく。
「前提条件が大事ってことか。それがし失念しておったな」
「でも、先程までのお話は『生物として』でしたら結構まとまっていたと思いますよ」
 沙羅をフォローするかのように、空が微笑んで言った。
「みんな揃って何を話し込んでるんだ? 俺も混ぜてくれよ」
 ちょうどそこに、武までが入り込んできた。
「ニワトリと卵、どっちが先かって議論」
 優が、これまでの過程を端折った説明をする。つぐみの定義の話も吹っ飛んでしまった気がするけど。
「おう、俺は当然卵だな。なんせ親子丼もオムライスも、あの熱々の卵がたまらないんじゃないか」
「……」
 みんなの沈黙が重なった。
「食い意地だけは、よく似せたかもね」
 つぐみが重苦しい雰囲気の中、つぶやいた。その視線は、雪山の吹雪にさらされた遮光器土偶のようだった。
 それから。
 優のカカト落としが、ものの見事に武の脳天を直撃したのだった。

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